田辺城(京都府舞鶴市)

京都府舞鶴市にある田辺城を訪れました。
田辺城といえば、戦国時代を代表する文化人細川幽斎(細川藤孝)の城。
そして慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの前哨戦の一つとなった「田辺籠城戦」の舞台として知られています。
現在は本丸周辺が舞鶴公園として整備され、城門を利用した田辺城資料館では、細川幽斎をはじめ田辺城の歴史を学ぶことができます。
実際に訪れてみると、特に面白かったのが細川幽斎の人物像。
武将として戦える。それなのに文化人としても超一流。
「この人、凄すぎないか?」
資料を見れば見るほど、そんな感想になってしまいました。
【今回の記事の概要】
・京都府舞鶴市の田辺城を実際に散策
・西舞鶴駅から田辺城までのアクセス
・細川幽斎と「田辺籠城戦」について
・細川家→京極家→牧野家と続いた田辺城の歴史
・現在の舞鶴公園に残る城跡を紹介
田辺城とは|現在の「舞鶴」の名前にもつながる城

田辺城は、戦国時代に細川藤孝(後の幽斎)によって築かれた平城です。
舞鶴市によると、天正10年(1582)の本能寺の変の後、隠居した幽斎が住む城として築城が進められました。
発掘調査資料では明確な築城時期を示す史料は残っていないものの、10年ほどの歳月をかけ、天正19年(1591)頃には完成したと考えられています。
東を伊佐津川、西を高野川に挟まれた場所に築かれ、堀や石垣を備えた城郭でした。
そして面白いのが、田辺城には「舞鶴城(ぶかくじょう)」という別名があること。
現在の「舞鶴市」という市名も、この田辺城の別名に由来します。
現在の舞鶴という町を知るうえでも、田辺城はかなり重要な場所というわけです。
田辺城までのアクセス|西舞鶴駅から徒歩約7分

田辺城の最寄り駅はJR・京都丹後鉄道「西舞鶴駅」です。
舞鶴市公式情報では、西舞鶴駅から舞鶴公園まで徒歩約7分。
駅からかなり近いので、鉄道旅行でも立ち寄りやすい城です。
西舞鶴駅から町中を歩いて田辺城へ向かいます。

しばらく歩いていると、立派な城門が見えてきました。
田辺城に到着です。
現在、本丸跡周辺は舞鶴公園として整備されています。
公園そのものは無料で、年中入ることができます。
田辺城資料館へ|田辺城約290年の歴史を学ぶ

まずは田辺城資料館へ。
ここでは細川幽斎をはじめ、田辺城の歴代城主や約290年にわたる城の歴史、城下町の暮らしなどが紹介されています。
私が訪れた際には、細川幽斎について無料で見学できる展示もありました。
通常の田辺城資料館は有料で、2026年現在の入館料は大人200円、学生100円。
開館時間は9:00~17:00(最終入館16:30)です。
休館日は月曜日を基本に、祝日との関係で変更される場合があるため、訪問前に舞鶴市公式サイトで最新情報を確認するのがおすすめです。
凄すぎる細川幽斎|武将なのに超一流の文化人

田辺城を語るうえで絶対に外せない人物。
それが細川幽斎(細川藤孝)です。
もともと室町幕府第13代将軍・足利義輝に仕え、その後は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康へと続く激動の時代を生き抜いた人物。
武将として丹後平定に関わった一方、和歌や古典にも通じた当代屈指の文化人でもありました。
その象徴となるのが「古今伝授」です。
『古今和歌集』の解釈などに関する秘伝を師から弟子へ伝えるもので、幽斎はその重要な継承者でした。
そして、この文化人としての立場が田辺城の運命を大きく左右することになります。
田辺籠城戦|細川幽斎が田辺城に籠城

慶長5年(1600)
天下分け目の関ヶ原の戦いを前に、日本各地で東軍・西軍による戦いが始まります。
細川幽斎の息子・忠興は徳川家康側につき、会津征伐へ参加。
その留守を狙う形で、西軍側の軍勢が丹後へ侵攻しました。
そこで幽斎は田辺城へ籠城。
舞鶴市の資料によれば、城を守る幽斎側は約500人。
対する攻城側は約1万5,000人とも伝えられています。
約500対1万5,000。
数字だけ見れば、とんでもない戦力差です。
それでも田辺城では50日を超える籠城戦が続きました。
そして、この戦いを普通の籠城戦では終わらせなかったのが、幽斎という人物の特殊さです。
幽斎が討死すれば、彼が受け継いでいた古今伝授も失われかねない。
それを惜しんだ朝廷が動き、後陽成天皇の勅命によって籠城戦は終結しました。
武将を救うためというより、文化の継承者を失わないために朝廷が戦を止める。
こんなエピソードを持つ戦国武将が何人いるのでしょうか。
田辺城資料館を見ながら、改めて思いました。
細川幽斎、凄すぎる。
関ヶ原の前哨戦は血みどろなイメージがありますから。
例えば伏見城や大垣城における前哨戦は悲惨な歴史が残っています。戦わざるを得なかったから最後まで戦いぬいた。武士としては立派ですが、とても悲しい運命だ。


資料館から田辺城の天守台を見る

資料館からは、現在の舞鶴公園を眺めることができます。
かつてここには城郭が広がり、その周囲には堀や石垣が築かれていました。
現在の姿だけを見るとコンパクトな公園ですが、発掘調査では本丸南郭の堀や石垣、三ノ丸では外堀跡や土塁なども確認されています。
地上に見えているものだけが田辺城のすべてではないというのも、城跡巡りの面白いところです。
細川家から京極家、そして牧野家へ
田辺城の歴史は、細川幽斎だけでは終わりません。
田辺城はその後、
細川家 → 京極家 → 牧野家
へと受け継がれていきます。
田辺籠城戦後、細川家は関ヶ原の戦いでの功績などにより丹後から豊前へ転封。
その後、丹後へ入ったのが京極高知でした。
さらに寛文8年(1668)には牧野家が田辺藩を治めるようになり、幕末まで続きます。
こうして城主を変えながら、田辺城は約290年間にわたって地域統治の中心となりました。
そして明治6年(1873)、廃城となります。
個人的に面白かったのが牧野家です。
牧野氏といえば、もともと三河国東部とも深い関係を持つ一族。
愛知県豊橋市にある吉田城の歴史にも牧野氏が登場します。
私はこういう瞬間が好きなんですよね。
京都府舞鶴市まで来て城を見ているのに、そこで以前訪れた東三河の城の歴史とつながる。
戦国時代から江戸時代にかけては、改易や転封によって大名が全国を移動します。
だから各地の城を巡っていると、
「あれ、この家は前にも見たぞ」
ということが何度も起きます。
一つの城だけを見ていると独立した歴史に見えるのに、複数の城を巡ると少しずつ線でつながっていく。
改易や転封があることで、いろいろな土地のつながりを見ることができる。
これも城巡りの楽しいところだと思っています。

現在の田辺城跡・舞鶴公園を散策

資料館を見学したあとは、舞鶴公園の中を歩いてみます。
現在の田辺城は、本丸付近が公園として整備されています。
かつての城には水をたたえた堀があり、石垣や白壁を備えた城郭だったと舞鶴市の資料に記されています。
現在は往時の城郭がそのまま残っているわけではありません。
しかし発掘調査は現在も行われており、田辺城の姿は少しずつ明らかになっています。
2018年度の調査では本丸南郭の堀と石垣、2022年度には三ノ丸外堀跡と土塁の一部が確認されました。
さらに2025年の発掘調査でも、三ノ丸にあたる場所から堀や石垣などが確認されています。
400年以上前の城の痕跡が、今も舞鶴の町の地下に眠っている。
そう考えながら歩くと、普通の公園の見え方も少し変わってきます。
まとめ|田辺城は細川幽斎を知ると面白い

今回は京都府舞鶴市にある田辺城を訪れました。
西舞鶴駅から徒歩約7分。
規模だけを見れば短時間でも散策できる城跡ですが、その歴史を調べると非常に面白い城でした。
特に印象に残ったのは、やはり細川幽斎と田辺籠城戦。
戦国武将でありながら、古今伝授を継承する一流の文化人でもあった幽斎。
その存在を惜しんで朝廷まで動いたというのですから、とんでもない人物です。
そして細川家から京極家、牧野家へ。
歴代城主を追っていけば、丹後だけではなく九州や東三河など、別の土地の歴史へもつながっていきます。
一つの城を巡ると、また別の城へ歴史がつながる。
これだから城巡りは面白い。
現在は舞鶴公園として整備されているので、西舞鶴を訪れた際には田辺城資料館とあわせて歩いてみてください。
今回はここまで。
ありがとうございました。
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